こころと霊性
「真人神人」のベースとなる「霊と体のバランス」を意識に落とし込むことに苦痛を感じる人と、なんとなくすんなり入ってくる人がいますが、得体の知れない話にならないよう出来るだけ論理的に記してみます。
サラッと読み流すと何を言ってるのかわからない・・・かもしれません。心を落ち着けて2・3度読み返してみてください。
大自然の動きはいっときもとどまることなく動いています。
自然というものを野山や海、天気、動物とイメージしているのであれば、人も自然の産物・自然そのものの存在ということを思い出してください。
この世にいのちをもらって年令という数をかぞえて、いつも同じ時間と位置にとどまることは出来ません。
人の場合、どの年代を生きていくことも日常の普通の時間の中にでてくる喜怒哀楽を受けていくことになります。
これを感じとる五官の最初の機能の、眼で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、舌で味わう、身で感じることが心の作用につながります。
眼に見えない、つかみどころのない心の作用は、思うという精神の作業と深く関わっており、私達は心が思うということで「かたち(体)」ある世界から学ぶことになります。
肉体が味わう体験や経験を通して、心は「かたち(体)」あるものを生み出す意識というものを受けとることになります。
心が物の意識を体得する作用は、具体的な世界との関わりが意識化をした時に始まります。
このことはどの年代をとってみても心の内と外の交りあいの時間の中に設定されて来る『学ぶ心』と『学習しない心』のからみあいの中に選択を受けます。
心の作用は五官の働きによって大変わかりやすく具体的に受けとるように出来ています。
心が心としてもっている『心の広がりの作用』は、かたちの無い、眼に見えないものを意識して受けとってゆくということも行なっています。
「かたち(体)」ある世界に心を置いて五官が関わっていくことを『物を中心とした物主の世界』、
対して眼に見えないつかみどころの無い、心の思いの意識の世界を中心に五官が関わっていくのを 『心主の世界』とみることができます。
心の中には心の作用が「かたち(体)」あるものを受けとって、心がはじめて納得了解する世界と、「かたち(体)」の無いもの、心が体験経験していないものでも心が受け入れて了解する世界との二つのあり方があるようです。
二つの心の動きの作用、『もの心』か、『心のもの』かに応じて、『もの心』の五官の意識が先にきますと『心のもの』の働きはそれに順じていく『物主心従の世界』となり、『心のもの』の五官の無意識が先にきますと『もの心』はそれに順じていく『心主物従の世界』となります。
どちらも心の世界が現実の世界に共に作用しているそのものです。
心の作用として、立ちあがってくる物を中心とした体の世界が具体的にかたちづくる「かたち(体)」の心の世界から逆に心そのものに影響を及ぼし、心を物の思いの虜(とりこ)にして心を動かしていくという五官の世界があります。
たとえば何かの用事で心の作用が『ここへ行こう』と行動を起こす意識の意識化があらわれて家を出たとしますが、全く違う所へ行ってしまったということが起きた場合、これは気がおかしいとか精神がおかしくなったとかになります。
心の作用が意識化して行動に移し具体的に体というかたち有るものを運ぶわけですから、心がかたち有るものを引き連れていることになります。
この二つの心の思いを生み出している心を探っていきますと、その奥に心の二つの作用の働きを支えている「魂の世界」と呼べる眼に見えないもので型づくられた霊的な世界が心にはあることに行き当たります。
ここに行き着くことが人として「霊」というものを認識する上での土台になります。