まこと
「誠・真実誠・真言・真人・真事・真誠・〇九十」
共に助け合いつつ落ちて行く者と、共に助け合って伸びて行く者、又喧嘩をして共に落ちて行く者、喧嘩をして共に伸びて行く者、いろいろあります。
「まこと」という、「まこと」が無いと結果は落ちてゆくこととなります。
「まこと」はどのような言葉で語りかけても解けるものではないでしょう。
「まこと」とは心や体の中に何かを感じ、腹の底から湧き上がってくる魂の芽吹きに込められたものというのはどうでしょう。
この「まこと」の湧き上がるもとは直霊(なおひ)の「いのち」そのものと言えます。
何かにつけて我が身かわいさで身をかばうこと、うまく仕上げよう、穏便に収めよう、上辺を繕おうとする態度が、「いのち」の中味を身に付けることをじゃましています。
共に助け合い落ちて行く者は結果として哀れ・愚かとなります。
同情や甘え・依存のあり方はまことの助け合いとはなり得ません。
心の奥の腹の底から湧き上がる「みたま」の「まこと」を結ぶのがまことの(ほんとうの)助け合い となります。
語らずとも、たとえ遠くに離れていても、一心同体であるその魂の奥の働きを体得することが「いのち」の心がけとして励まし合い、向上する共の道となります。
うまくやろう、妥協やあきらめも必要だと打算がはたらくと、折角の縁で仲間となっても向上成長する「みたま」の糧となり得なくなり、共に甘やかして落ちて行くことになってしまいます。
目に見えなくとも実感がなくとも、 この世に生まれ、生かされている神の仕組というものを受け入れるか否かによって「まこと」と「みたま」の結びつく心の湧き上がるちからが定まってきます。
自分の都合、自分かわいさ、損得を考えた意地の張り合いになったり、なぐさめ合いだったり、ひがみやねたみ、うらみを心に留めながら持ちこたえて行く結果は「みたま」を落とすことになります。
「まこと」なくして信頼と安心はあり得ません。
神の仕組みの存在を認め、不安な心にわずかな希望の光を灯し、揺れる心に落ち着きを取り戻すことが大切な心の持ち方になります。
元から出たものは最終的には元へかえります。
目の前のものばかりに気を奪われないよう、少しでも視野を広げ神理(真理)を見る目を開くよう意識する日々を重ねて下さい。
「親の心を子は知らず」とならぬよう、見えない世界、殊に神を認め「まこと」をもってカミと言霊を交わすことの出来る真人神人となってカミのもとの道に帰りましょう。